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子どもの権利条約の歴史
人としての権利、「人権」ってなんだろう?
人権とは、人に生まれながらにしてある「人間としての権利」のことです。
権利は英語でRights(ライツ)といいます。権利の語源のライツという言葉は、「あたりまえのこと」という意味があります。「人間としての権利(人権)」は、性別・人種・民族・皮膚の色・言語・生まれ・階級や宗教・政治的な信条(考え方)などに関係なく、すべての人にあたりまえに、あるものです。今では当然のように聞こえるかもしれませんが、かつては、君主制(国王による支配)や身分制度などにより、特定の人々だけが権力を持ち、それ以外の人々が自由に発言をしたり、社会の活動に参加したりすることができない状況が続いていました。
これに対し、1789年、フランスで市民革命と共に「フランス人権宣言」が採択されました。支配的な身分制度から解放され、個人を主体とする「人」の権利(人権)という考え方が生まれたのです。
このような歴史的な出来事があるものの、その後も一部の人だけの権利が守られる状況は続きます。この状況を大きく変えたのが、第一次世界大戦・第二次世界大戦の後、1948年に国連で採択された「世界人権宣言」です。
世界各地で起きた戦争により、非常に多くの命が奪われました。独裁的な政治や人々の命を軽視してきたことが、このような悲劇を生んだことを当時の世界各国の代表者が認め、国境を越え、すべての国がすべての人の「人間としての権利」を共通の基準として守る努力をし、平和な世界を築いていくことを「世界人権宣言」で約束したのです。
「世界人権宣言」の採択から、約80年が経った今、みなさんは「すべての人の権利」が守られていると感じますか?
残念ながら、人権に関する教育は今も十分ではありません。また、ある国の中で行われていることについて他の国が意見をしにくいという状況も続いています。多くの戦争や紛争が起き、人種や性別による差別も続いています。
「世界人権宣言」で示されたことを実現していくためには、今を生きる私たちが人権を守るためにできることを考え、取り組みを進める必要があります。
子どもの権利条約の歴史① 条約ができる前
人としての権利、「人権」ってなんだろう?の項目で、「人権」という考えが生まれた背景について説明しました。
ここでは、子どもは一人の人間であり、子どもたちにもおとなと同じような権利があると考えられるようになるまでの歴史について説明します。
世界中で長い間、ある特定の階級・身分の人々以外のおとなたちに人としての権利(人権)が認められていなかったように、子どもたちには権利があるとされていませんでした。
今から300年~400年ぐらい前の17世紀ごろまで、おとなを基準に考え、子どもは「小さなおとな」と考えられていました。
しかし、哲学者ルソーは、子ども固有の考え方、感じ方を大事にすること、子どもは小さなおとなではなく、多くの可能性を秘めた成長過程にある存在であることを主張しました。
この子どもを一人の人間とする考え方は、子どもにも人間としての権利があること、言い換えると「権利の主体」だと考える出発点となりました。
しかし、その後も18世紀から19世紀前半の産業革命時代を通し、身体の小さな子どもたちは、おとなの手が届かない機械のすきまや炭鉱のせまい坑道を行き来するのに適しているとされ、多くの子どもたちが身体に害をおよぼす仕事をさせられました。当時は、7歳から8歳の子どもたちも非常に安い給料で、織物工場などで大勢働いていました。
このような状況の中、イギリスで、炭鉱や工場で働く子どもたちが国に過酷な労働について証言したことが、児童労働を禁止する法律の制定を後押しし、子どもの健康や生活を守る「子どもの福祉」という考え方がヨーロッパを中心に少しずつ発展しはじめました。
子どもの権利条約の歴史② 条約の土台となる動き
産業革命を通してさまざまな技術が発展し世界各国の行き来が活発になるなか、ヨーロッパ内で同盟国同士の対立が激しくなり、1914年、第一次世界大戦が始まります。1918年まで続いたこの戦争には、25ヶ国が参加し、世界全体を巻き込んだかつてない規模の戦争となりました。
この戦争では、おとなだけではなく、多くの子どもたちが命を失いました。
この頃、イギリスでエグランタイン・ジェブという女性が子どもたちの貧困問題に関する調査を行っていました。ジェブは、戦争により子どもたちの食べ物がなくなり、病気になったりけがを負ったり、家族と離ればなれになる光景を目の当たりにし、自分に何ができるのかを考え始めました。
第一次世界大戦での被害は非常に大きく、ヨーロッパでは、約600万人の子どもたちが親を失い、孤児となりました。このような子どもたちを救うため、ジェブは子どもを支援するための基金「セーブ・ザ・チルドレン基金」を設立しました。人々に呼びかけて集められたお金を使い、ジェブは敵味方の関係なく、子どもたちへの食料配布を行いました。
これらの活動を通し、1922年~1923年にかけ、ジェブは多くの人々の意見を取り入れながら「子どもの権利宣言」の草案を作ります。翌年、その文章が元となった「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」が、当時の国際連盟で採択されました。
この「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」では、子どもたちにとって最善なものである平和ではなく、最悪のものである戦争を子どもたちに与えてしまったという反省、また、食べ物や医療など成長に欠かせないものを子どもは与えられる権利があるといった考え方から、「人類は、子どもに対して最善のものを与える義務を負う」という言葉が宣言の前文に掲げられました。
また、5つの項目が子どもの権利として示され、「子どもは特別な保護を受ける権利がある」という認識を広め、子どもの権利の保障を国際的に築いていくきっかけとなります。
しかし、このような動きにも関わらず、1939年、世界は第二次世界大戦という新たな戦争を始めてしまいます。
ジェブについてもっと知りたい人はこちらを読んでみよう
【子どもたちのために生きた人生 エグランタイン・ジェブ物語】
https://www.savechildren.or.jp/news/publications/download/jebb.pdf
子どもの権利条約の歴史③ 条約ができるまで
1939年に始まった第二次世界大戦により再び子どもを含む多くの人々が世界中で犠牲となりました。
当時、小児科医として戦争で犠牲になった孤児のための活動を行い、のちに、孤児院の院長、教育者、そして作家としても活躍したユダヤ系ポーランド人のヤヌシュ・コルチャックという男性がいました。コルチャックは、子どもたちを一人の人間として尊重することを訴え、「子どもは今を生きているのであって、将来を生きるのではない」、「子どもはだんだん人間になるのではなく、(生まれながらに)すでに人間である」など、重要なメッセージを数多く残しました。
しかし、ユダヤ人に対する迫害の犠牲となり、1942年、孤児院の子どもたちと共に殺されてしまいます。
1945年に第二次世界大戦が終わり、二度の世界的な大戦への反省から、国連では1948年に「世界人権宣言」が採択されます。その後、1959年には、社会的に弱いとされる子どもたちを一人の人間としてとらえる「子どもの権利宣言」が国連で採択され、10の項目が子どもたちの権利として示されました。
1924年頃、エグランタイン・ジェブや当時の人々が推進した「ジュネーブ宣言」では、植民地を含まず、ヨーロッパの子どもの一時的な救済と保護をめざすことが宣言として示されていました。
しかし、1959年の「子どもの権利宣言」が採択されたときには、ヨーロッパだけではなく、世界中のすべての子どもへのいつまでも変わることのない保護と福祉を権利として守ることが表明されました。
さらに、コルチャックの祖国であるポーランド政府は、コルチャックの精神(考え方)を受け継ぎ、二度と戦争やホロコースト(大勢の人を迫害・虐殺すること)が行われないよう、国際的に子どもの権利を保障するための新たな条約の制定へと動き始めました。
そして1978年、ポーランド政府は18の条文案を示した「子どもの権利条約」の草案を提出します。
その後、約10年の議論を経て、1989年、ついに国連総会で54条の子どもの権利を定めた、今の「子どもの権利条約」が採択されました。第1条から第42条は子どもたちにある具体的な権利の内容、第43条から第54条は特に、国・国際機関・その他の組織や団体に対する約束ごとが示されています。
この条約の採択を通し、世界中の国々が子どもには権利があること、つまり子どもは権利の主体であることが示され、子どもたちを世界各国が協力して守るために努力することに合意しました。
なお、1989年以降も、社会環境の変化に伴い、いくつかの権利が子どもたちの権利として追加されています。
また、日本は、1994年に「子どもの権利条約」を国として守ることを約束(批准)しました。